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D現存するホフマン窯
鉄砲窯:広島県竹原市吉名町日本に残るホフマン窯8基(解体された3基と現存する鉄砲窯1基を含む)と韓国で稼動するホフマン窯2基の合計10基の窯を紹介します。

ウォートルスの銀座れんが街用小菅ホフマン窯は丸型プラン(平面)でした。その直系と見られるのが、旧下野煉化製造会社のホフマン窯です。1890年(明治23)竣工と見られる窯で、1979年(昭和54)には国の重要文化財に指定されました。所在地は、栃木県下都賀郡野木町大字野木3324番地の潟Vモレン内です。火は時計回りで、1971年(昭和46)5月まで稼動していました。天日乾燥した素地を1房に1万5千本、そして全体では16倍(房)のれんがを詰めることができます。火は24時間で投炭口を3本分進み、23日間で1周したそうです。

全国的に普及していたホフマン窯の形式は円形ではなく、日本煉瓦製造のような楕円形(トラック型・小判形)のプランでした。現存する6号窯は1907年(明治40)5月の完成で、現存は埼玉県の文化財に指定されています。同県深谷市大字上敷免89番地に位置し、すでに解体された4号窯と共に1968年(昭和43)まで稼動していました。焼成帯が移っていく向きは反時計回りで、1房に1万8千本、その18房分を一回りで焼くことができます。

地理的に近い茨木と福島東部(常磐地方)産の粉炭を用い、全従業員1人当り月産1万本のれんがを焼いていたといいます。ところがトンネル窯にすれば3倍の効率になるという理由で、ホフマン窯からトンネル窯に切り換えられました。6号窯が当初と異なるのは、関東大震災で崩れた煙突を鉄筋コンクリート造に改め、窯の上部にあったコール式乾燥室を撤去してしまった点です。

日本煉瓦製造会社には1897年(明治30)5月に作図されたホフマン自筆の設計図(埼玉県指定文化財。同県立文書館管理)が残されています。ところが、そのプランを見ると楕円形ではなく長方形なのです。この形式の近いのは琵琶湖畔の旧中川煉瓦ホフマン窯です。ホフマンの系譜が日煉を経て近江まで伝えられたとは考えにくく、全くの偶然でしょうけれども、興味ある事実と言えましょう。滋賀県近江八幡市船木町5番地に残るホフマン窯の正確な建設年代は不明です。しかし1916年(大正5)には既に稼動しているので、おそらく明治末期の竣工ではないかと考えられます。

旧社名である湖東組から後の中川煉瓦へ名称変更する遠因であったのかも知れませんし、逆に改称した後の新設備として築かれた窯かも知れません。この工場では成形したばかりのれんがを「荒地」(あらじ)、乾燥後のれんがを「素地」(しらじ)と呼んで区別し、荒地を陰干しするための無数の棚を構えた乾燥場を幾棟も有していました。窯の中に素地は最高19段まで積むことができ、投炭口の1列から隣の列までの1間隔(1本と呼ぶ)あたリ2500本の素地を詰めることができました。焼成部分は「5寸落ち」で焼きあがりとし、半月ないし17日間で窯を1周したそうです。火は反時計回りです。1967年(昭和42)6月までれんが焼成、同年秋から1969年(昭和44)暮れまで屋根瓦を焼いたといいいます。

オーソドックスな楕円形ホフマン窯が2基広島県に残っていました。同県豊田郡安芸津町三津の旧三津窯業株式会社ホフマン窯と竹原市吉名町4518の山陽煉瓦株式会社ホフマン窯です。これらは竹島安芸津地区に見られる外壁を石積みで仕上げたホフマン窯です。石積みにした理由は建設資材費を安くあげるためと伝えられます。

旧三津窯業株式会社ホフマン窯1919年(大正8)、山陽煉瓦ホフマン窯は1942年(昭和17)に築かれました。ともに1978年(昭和53)、1967年(昭和42)まで稼動していましたが、前者は1984年(昭和59)、後者は1985年(昭和60)に相前後して解体されました。吉名と木谷一帯の土は瓦には荒いもので不適、それでれんがの原土に用いたと聞きます。2基のホフマン窯はどちらも時計回りに火が動きました。山陽煉瓦ではホフマン窯点火時の仮設焚き口を「ほら口」と称し、最初に薪をくべる作業を「ほら焚」と呼びました。着火から24時間後に投炭開始。投炭は7分〜10分間隔で、一回ごとに28個の投炭口(即ち7本、約1房分)へ同時に粉炭と塊炭の混じった燃料を投下しました。焼き上がりを見る「下がり」は、16p下がった時点で投炭量を2分の1に減じ、18p下がったのを見て粉炭の投入を停止したそうです。

旧大杉窯業ホフマン窯:兵庫県加西市(解体)変則的なプランをもつホフマン窯が兵庫県加西市別府東町丙3-8大杉健次郎氏宅(旧大杉窯業)にありました。解体時にはU字型をしていました。これは1941年(昭和16)に1本の直線形の窯としてつくられたものを、戦後1950年(昭和25)に楕円形のホフマン窯に改めたものです。ところがホフマン窯では焼成能力が大き過ぎて販売量が伴わず、1971年(昭和46)にホフマン窯の一部を切断してU字型の鉄砲窯(後述)としたものです。火は時計回りで、焚き始めは1昼夜半ないし2昼夜かけました。九州炭を用いて1000℃〜1100℃の高温を得られましたが、1100℃前後で焼かれたれんがは黒紫色になるということです。ホフマン窯に改造した1950年に会社組織としましたが、1982年(昭和57)に最後の火を入れて以来休業し、この窯は1990年(平成2)に解体されました。

上述の旧大杉窯業ホフマン窯と同様に、改造をすることによってホフマン窯に生まれかわったれんが焼成窯が現存しています。舞鶴市西神崎(旧京都府加佐郡神崎村字西神崎)の旧京都竹村丹後製窯所の窯です。この工場は現在、神崎コンクリート株式会社として建設用のコンクリートブロックなどを製造しています。

京都竹村丹後製窯所は1897年(明治30)に創業しましたが、当初の窯は直線形の登り窯でした。その時の煙突が今も一番大きい煙突です。ところが明治の末から大正時代に入った頃、窯の生産能力をもっと上げたくなったようなのです。当時、最も焼成能力が大きなれんが窯といえばホフマン窯でした。

この工場では登り窯をホフマン窯に増改築することにしました。その時、登り窯の大きな煙突をそのまま利用することにしました。登り窯の直線部分も楕円形に新設されたホフマン窯の一部として利用されたかも知れません。ところが、れんがを焼き始めてみると、あまり良好でない点があることに気づきました。煙の引きが弱いのです。大きいと思われた登り窯の煙突でも、ホフマン窯ほどの大型窯の煙突としては低かったようです。

そこで知恵ををしぼりました。前述の通りホフマン窯は一房ごとに焚き上げていくシステムですから、これに合うように各房に小さな煙突を建てたのです。それが今もある10本の小煙突です。登り窯時代からの大煙突はどこの房に火がついても使いますが、それに加えて焼成帯の位置にある小煙突も使用して煙を上に引き上げる補助にしたわけなのです。

ソウル市郊外にあるニ和産業株式会社(京畿道広州郡東部邑望月里700番地)の工場にはホフマン窯が2基ありますが、どちらも火の向きは反時計回りです。1基は1984年(昭和59)に休止、現在も稼動しているのは正門に近い1964年(昭和39)に築造された窯だけです。焼成帯として同時に投炭するのは9〜10本(投炭口にして45〜50個)で、およそ2房分に当ります。その位置よりも更に進行方向の3房先が予熱帯です。逆に焼き上がって後方へ6房ほど過ぎれば、れんがの運び出しが可能だということです。日産3万8千本のれんがを焼くことができるそうです。

ホフマン窯の技術がわが国に定着し終えると、日本人の独自な解釈による改良・小型化がおこってきました。ホフマン窯の直線部分だけを切りとったような鉄砲窯の出現です。稼動法は、窯詰め・最初の焚き始め・投炭作業・焼成帯を順次となりの房へ移していく工程など全く同じです。ところがホフマン窯は窯が輪を構成しているので何日かして元の位置に戻り、火を落とすことなく連続焼成が続けられるのに対し、鉄砲窯は窯の突き当たり最後尾の房まで焼き上げたら火を消してしまうのです。鉄砲玉のように、火が行ったきりなので、鉄砲窯と呼ばれるようです。

鉄砲窯の考案は技術史的には必ずしも進歩であったとは言えないかも知れません。ホフマン窯の画期的な最大の利点は、一度点火すれば消さずに、かつ絶え間なく焼成をし続けることができる点にありました。ところが鉄砲窯では、ホフマン窯以前の登り窯などと同様に、その都度1回ずつ新たに火をつけなければなりません。

旧山陽煉瓦ホフマン窯:広島県竹原市吉名町(解体)広島県竹原市吉名町の海岸線に位置する鉄砲窯のように、背面に急な小山があるきわめて狭い敷地では有効な手法であったと言えます。この鉄砲窯が築かれた正確な年代は不詳ですが、それでも概ね1941年(昭和16)頃から旧大木煉瓦と松本煉瓦が前後して使用していたと聞きます。この鉄砲窯は1950年(昭和25)、最後の稼動をして廃棄されたままだといいます。

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